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66年前 ++++++++ 日記・エッセイ

2011/08/06

の今日、広島に原爆が投下されました。

その時、私の父は爆心地から約10km離れた五日市町(現広島市佐伯区)の学校に、
義父は爆心地の近くの正に広島市内にいたそうです。
(後に義父は広島市内の自宅ではなく、横浜にいたと聞きました。
原爆投下後、自宅のある広島市内に戻ってきたそうです。)

広島には今も被爆者手帳を持っている方々が沢山いらっしゃいます。
義父も持っていますし、私の伯母も持っています。
父は申請すれば被爆者手帳を受け取る事ができる条件が揃っているのに
本人の判断で受け取っていません。
(佐伯区が受け取れるようになったのは戦後随分と経ってからと聞きました。)


父は当時8歳。
役人の祖父は祖母と幼かった叔母を連れて山口県へ単身赴任中。
2人の姉(伯母)といとこ家族と今も暮らしている土地に住んでいました。

実家は川のすぐ横にあるため、
爆撃で大火傷をした人たちが河口から歩いて
水を求めて彷徨っていたそうです。

その中のお一人が実家に辿り着き
皆で火傷の手当てをしてしばらく看病したと聞きました。

その後、名前も分からないその方は実家で息を引き取ったそうです。


66年前に終戦を迎えた日本ですが、
ある意味、ここからが始まりだったと言えると思います。

戦争の傷跡はその後も長く続き、
終戦から18年が経ち、私の父と母が出会って付き合ってからも
暗い影を落としていたと聞きました。


ここからは母から聞いた話です。


母は東京の下町生まれの下町育ち。
今では珍しくなってきた江戸っ子で、
親戚は全て同じ町内に住んでいるという環境でした。

その母が、仕事で東京に出てきた父と職場で出会い付き合うのですが、
父が広島出身で原爆投下の正にその時、その光を浴びていた事を知ると
結婚に反対する親戚もいたそうです。

ただでさえ、広島から来たというだけで恐れられていた時代。
特に正しい知識のない人には恐怖の対象にもなっていたとか。
戦後に広島の方に対して結婚差別という現実があったことを
私は自分が結婚してから母に聞いて初めて知りました。


それでも母は父を選び、4年の交際を経て結婚しました。

父は下町の明るい母の家族がとても気に入って
交際していた4年間は母の家に入り浸っていたと聞きましたが
結婚差別について父から聞いたことはなかったので
もしかしたら母の胸の中に留めていたのかもしれません。


そんな大恋愛をしたはずの父と母ですが、
今はそんな面影は全くなく、よく喧嘩をして
「離婚してやろうかと思ったわ!」
と、愚痴を聞かされています。

ある意味、平和だということなんでしょうが(汗)
母は大切なことを少し忘れてしまっているのかもしれません。


過去に私が広島について書いた記事です。
私もこれらの記事を書いた時の気持ちをすっかり忘れていました。
母のことは言えない。汗


■8月6日に思うこと(2006/8/6)
http://hemhem.blog6.fc2.com/blog-entry-628.html

■8月6日は(2004/8/6)
http://hemhem.blog6.fc2.com/blog-entry-161.html



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テーマ=日記 - ジャンル=ペット

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Comment
>めぐさん
ご友人のお母さまは大変な苦労をされてらっしゃるのですね。
私の父と同じくらいの年かもしれませんね。
命は助かっても飢えが続いて、栄養失調だった子供がたくさんいたと聞きました。
父は特に体が小さく痩せていたため、近所のガキ大将に狙われて追いかけまわされていたとか。
弱肉強食の世界で弱い者は負けるから、心は強くなければいけなかったなんて話も教えてくれました。
それでも、生きていられるだけ父は恵まれていたのでしょうね。
【2011/08/10 00:05】 URL | あこち [ 編集] | top▲


こんにちは。

つい先月。。。。
子供の学校で同じ保護者役員を務めているママ友が
「 実は、私は原爆2世なの・・・・」と
話してくれたのです。

どうやら彼女のお母さまは過去に広島住人だったそうで・・・
若くしてご主人様を亡くし、女手1つで娘さん(私の友人)を
育ててこられたお母さまなんです。

残念なことに先月、体調を崩され入院しております。

あの原爆投下の日を境に人生を狂わされた方々は
大勢いらっしゃると思います。

あこちさんのお父様もご親族も、命は助かっても
今までどれだけ沢山の苦悩の日々を乗り越えての現在があることでしょう。。。

志半ばで命を絶たれた方々の為にも
決して忘れてはいけませんよね。。。
【2011/08/09 15:29】 URL | めぐ [ 編集] | top▲


>marukoさん
marukoさんのご両親と義父が同世代なんですよ。
大変な時代を生き抜いて来られた世代ですよね。
今の原爆記念病院は当時とは違うのでしょうか?そんな事すら知りません。汗
焼け野原からここまで復興できたのは膨大なエネルギーを手に入れたからだと思うと、どこまでも原子力に振り回される歴史に皮肉なものを感じます…。
今は原発に関心が集まっていますが、そもそもダムを作る時も膨大な自然を破壊し、多くの動物の命を犠牲にしてきているんですよね。
人は自分の身にふりかかって来るまで突き進む生き物なんでしょうか…。
って哲学めいてきたので、ここで止めておきますね。汗

>はなぺちゃわんさん
はなぺちゃわんさんは広島で暮らした事があるんですね!
戦後30年ほどでも広島はそんなに復興が進んでいたって事ですよね?
昭和49年でしたら私もさとちも産まれているから当然ですね…。
父と義母が年齢が近いのですが、戦後10年の20歳前後の頃、2人とも栄養失調だったそうです。
そんな時代を乗り越えて私達を産んでくれて感謝!!!
【2011/08/06 21:42】 URL | あこち [ 編集] | top▲


おはようございます
私が始めて広島に行ったのは、高校の1年生の時、
ある資格の受験のために、平和公園の近く(中の建物だったかな?)
で受験して、帰りに原爆資料館に始めて入り、ショックを受けて帰って来ました。
それから3年、今度は就職の為に広島へ、今度はここで生活します。
一度広島の町を見てるのに、まだ間違った認識でいっぱいでした。
昭和49年頃の話です。
【2011/08/06 09:07】 URL | はなぺちゃわん [ 編集] | top▲


幼いころ、母方の曾祖母のお見舞いに良く行っていました。
当時の原爆記念病院。
病棟は薄暗く、じめっとしていて幼心にもあまり行きたくない場所でした。いつも母の手をしっかりと握ってなるべく離さないようにしていました。そして、なぜか鼻腔の奥に残る甘酸っぱいリンゴのすりおろしの様な匂い。
悪いとは思いながらも「早く帰りたい」とずっと心の中で呟いていた思い出があります。
今の広島からは想像できないですよね。
戦争は憎む相手が外国でしたが、福島は・・・。
平和利用の核なんて絵空事の様な気がします。
世界中の人が、一にも早く笑顔で毎日を過ごせる社会になりますように。
【2011/08/06 08:31】 URL | maruko [ 編集] | top▲




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